・陽光の足跡(2023年3月22日 初演)

 一日の間で時の移ろいと共に色模様を変えていく陽の光。

その過ぎゆく表情を三つの異なる時間と場所において切り取った情景を描いたのが、この小品集である。この三つの情景の舞台は、とある日に立ち寄った生駒山の宝山寺や鎌倉の光明寺、京都の南禅寺といった寺社仏閣で出会った風景の記憶にある。


黎明(れいめい)の刻、曙光が辺り一帯にしめやかに満ちている。遥かより錫杖(しゃくじょう)の鈴の音と鐘の音が響いてくる。


白昼の灼光は鴟尾(しび)の黄金色に眩く照射し、黒い伽藍を白く浮き上がらせる。巨大な山門の下、見上げると建物の暗い影が色濃く深い。


日暮が近くなるにつれ、燦々とした木漏れ陽は次第に光衰え、葉を透過するのも難しくなってきた。枝や幹の影だけが陽光の名残を背に佇んでいる。

 

・於) 文京シビックホール小ホール

ピアノ独奏:武内俊之

動画の視聴

20230322NICHIRO_Hirai_YOUKOU.mp4


・Promenade 3 (2015年3月26日 初演)

 "Promenade"(散歩道)という曲名で2003年に初演されたフルートとピアノの為の第1作以来、様々な編成のために書き進めてきたシリーズの第3作目に当たるのが、今回の"Promenade 3" for String orchestraである。

この連作のコンセプトとしては、「気ままに、無目的に時間を過ごすうちに思わず発見する楽しみ」を求めることが主眼となっており、いずれの4曲とも曲の構造からしてまさしく“散歩道”そのもののような、とりとめのない形態になっている。

ここでは、聴き手にとにかく「気楽にくつろいだ心持ちで聴いてほしい」と願って作曲しており、そのための作り手の方便として、曲の構造や文脈をほぼそっくり同じように設けてきた。これはいわば、昔話や古典芸能のごとくまずはお決まりの筋立てが有って、主人公や場面設定こそ違えども似たような顛末を迎えるということであって、それはつまり「同じ設計図や企画書の下で、しかし違う材料を使って異なる趣の作品を作る」、ということなのである。


前半より Promenade3_01

中盤より Promenade3_02

終盤より Promenade3_03


・於) 東京上野の文化会館小ホール

指揮:野津如弘

弦楽アンサンブル:“TGS(東京芸大ストリングス)“

※コンサートミストレス:長尾春花


・Promenade 4 (2015年1月20日 初演)
 "Promenade"(散歩道)という曲名で様々な編成のために書き進めてきたシリーズの第4作に当たるのが、今回の"Promenade 4" for Clarinet and Pianoである。

2003年に初演されたフルートとピアノの為の第1作以来、この連作のコンセプトとしては、いわゆる「低回趣味」を念頭に置いて「気ままに、無目的に時間を過ごすうちに思わず発見する楽しみ」を求めるのが主眼となっており、いずれの4曲とも曲の構造からしてまさしく“散歩道”そのもののような、とりとめない形態になっている。

その中でこの第4作の特色としては、A管クラリネットの音色が私にとっては清澄な水を感じさせるためであろうか、雨の日の散歩道での楽しい思い出を心に浮かべつつ作曲を進めたということが挙げられる。


前半より Promenade4_1

後半より Promenade4_2


・於)2012年11/15 カワイ表参道コンサートサロン「パウゼ 」

西崎 智子( クラリネット)

志村 泉( ピアノ)


・「境界」(Boundary for  orchestra)(2011年11月1日 初演)
 この曲の題名、「境界(=Boundary)」は、時の流れの中に何かの折に生ずる断続感、たとえば薄暮と宵闇の間、黎明と夜明けの間に感じられる漠然とした境目や、あるいは、人生や時代が大きく変転する際に直面するような、この世界に目にはしかと見えない、しかし決定的に本源的な変化が突然発祥する様をあらわしている。

 つまりこの“境界”とは、「時の境界」のことを指しているのである。


冒頭より1’30” Boundary_1stHalf

後半より1’30” Boundary_2ndHalf

※全曲の演奏時間は17:35ですが、東京交響楽団の規定により計3分間の掲載となっております。


・於) 2011’11/1;東京オペラシティコンサートホール

指揮:山下一史

管弦楽:東京交響楽団


・Promenade 2 (2010年7月3日 初演)
 この作品は、2003年に初演されたフルートとピアノの為の"Promenade"(散歩道)に続くシリーズ第二作である。お気に入りの散歩道を歩いていると、様々な光景に出会うことができる。咲き乱れる野花の群生、背の高いプラタナスの明るい並木道、黒々とした樅ノ木の鬱蒼とした森・・・。そういった気まぐれな場面転換が、曲の流れに沿って次々と継起してゆくさまを楽しみながら聴いていただきたい。


 Promenade2


・於)2010’7/8;アイザック小杉文化ホールラポール

川久保賜紀 (バイオリン)

遠藤真理(チェロ)

三浦友理枝(ピアノ)


・梢 ―三つの素描― "KOZUE" Three Sketches) 2009年初演
 この作品を書き始めるきっかけとなったのは、中村岳陵の三枚の絵を目にしたことである。
うち二枚は残照清暁という題で、構図も色調も一見しただけでは全く同一に見える程に似通っている。いずれも葉がすっかり落ちた木の梢が、赤く染まった空を背景にごく単純な構図で描かれており、しかし、かたや落日に照らされた空であり、もう一方は朝焼けに染まった空、ということなのだ。
 言われなければそうは感じないのかも知れぬが、並べてあるのをそういうつもりで眺めていると、確かにこれから夕闇に向かう風景と、これから夜明けを迎えつつある風景だという実感が湧いてくるから不思議であった。
 その二枚の絵に加え、別に一枚、鮮やかな緑の梢が、極端に簡略化された陽光に輝く空と川なのであろう、ただ金色に塗られた平面的な図案と共に描かれている絵に強く惹かれた。
 そこから着想を得て書かれたのがこの三曲である。
 ある同一の木の梢が同一の風景にあって、しかしながら異なる時間帯には全く違う心象を結ぶ、そういう状況を思い浮かべつつ聴いていただきたい。


  第一曲「残照に沈む」
 
第二曲「 陽光に霞む」
 
第三曲「暁光に映える」


・於)'09年10/14 上野・文化会館小ホール
・ピアノ:浦壁信二


・無伴奏フルートの為の三章 (2005年初演、2012年改訂初演)

1. 典礼  (tenrei)

2. 饗宴  (kyoen)

3. 祭祀  (saishi)

 この世の命ある存在は全て、他の生命を糧としてのみ、その命を維持し続けることができる。

 このどうあっても変えようのない摂理について考える時、私は例えば獰猛な捕食動物の狩りを、あるいは古代の生け贄の祭礼などを思い浮かべずにはいられない。そういった原初よりの生命の営みを、三つの赤裸々な場面を通して見つめてみようとしたのが、この三曲なのである。

 第一曲の「典礼」とは、捕食の意志の芽生え、あるいは一個の生命が犠牲として捧げられることに対する厳かな決定の儀式。第二曲の「饗宴」とは、獲物を狩るという冷徹な行為のひたむきな実行、ひとつの生命が奪われ、供せられる刹那の有様。そして第三曲の「祭祀」とは、根源的な充足を得た生命の、力強い法悦がほとばしる忘我の境地を描いている。


第一曲「典礼」(tenrei)

第二曲「饗宴」(kyoen)

第三曲「祭祀」(saishi)


・於)2012年11/15 カワイ表参道コンサートサロン「パウゼ 」

・独奏フルート: 泉 真由


・Trio for Oboe,Cello,and Piano(1986年初演)
 
かねてよりの私の考えとして(また、一般によく言われるこ とでもある。)、すごく大雑把に言えば、音楽は「歌、あるいは祈り」と「踊 り(“歩み”なども含んで)」の2つに大別できると思うのだが、この曲は非 常に原初的な意味において「うた」と「おどり」を念頭に置いて作られた。
 とはいえ当然、聴けばすぐ判るように“実用の”歌曲や舞踏曲であるわけで は毛頭ない。そうではなく、例えば祭りのお神楽を見物するような、あるいは 酒宴の席で喉自慢が興に乗って一節披露に及ぶような、そんな素朴な人の営み としての音楽がもつ楽しさ、ということを思いつつ作った、ということなので ある。3楽章よりなる作品。


 Trio:第一曲


・於)'03年5/29東京オペラシティ・リサイタルホール
・オーボエ:青山聖樹 チェロ:江口心一 ピアノ:浦壁信二


・ "Promenade" for Flute and Piano"(2003年初演)
 今回のプログラムの中では最新作であるこの曲こそ、はじめに述べた私の 「低回趣味」の最たるもので、曲の構造からしてまさしく“散歩道”そのもの のような形態になっている。まずはとにかく、ただただ気分任せ,という作り 方で一度曲を作ってみたかったのだ。
 しかし、自身のアイディアの乏しさというのはいかんともしがたく、そうは 願っても結構「気分通りに」などと気楽には行きにくいものだ、ということを 嫌でも悟るに到った。
 もちろん、これもまたよい勉強と考えれば、それはそれでよかったのだが・ ・・。


 Promenade


・於)'03年5/29東京オペラシティ・リサイタルホール
・フルート:中務晴之 ピアノ:平井京子


・庭の3つの情景 (1997年作曲)
 3曲からなるピアノソロの組曲。「年若い人達に聴いてもらう曲を」と頼ま れる機会があって作った曲なので、なるべく聴いて楽しく愉快な内容に、と願 いつつ作曲した。(ただし、弾くのはそうたやすくはない。「子供のための」 とは称していても、大人でも弾くのが大変な曲というのは、往々にしてあるも のなのだ。)
 ところで、ここにある「庭」というのは異なる3つの庭の、という意味では なく、同一のとある庭における、違った時間帯の、違った状況を写したもの、 ということである。
 第1曲は、人々が集う昼の庭、第2曲は、月や星や窓辺の灯りなどの光だけ が集う夜の庭、第3曲は、鳥がにぎやかに集う朝の庭を思い浮かべて聴いてい ただきたい


 庭の3つの情景:第三曲


・於)'03年5/29東京オペラシティ・リサイタルホール
・ピアノ:浦壁信二


・Rhapsody for Cello and Piano(2003年初演)
 この世界には、苛酷な環境であるがゆえの美しさを備えた風景というものが 存在する。例えば、高い山、深い海、あるいは燃えさかる天体、あるいは酷寒 の天体のように・・・。それらは、人間の生存を許さないほどに厳しく、いか なる人知をも超越した抗いようのない力を容赦なく行使し続ける。
 そして、そういった風景が美しいのは力のゆえでも知恵のゆえでもなく、豊 かであるが為でも純粋であるが為でもないのだろう。たぶん、ただあるがまま である、というだけのことなのに違いない。
 すなわち、美しいという感慨の実体はその風景を見るこちら側、すなわ ち人間の側にあり、人間が我知らずに日々生かされているということに対 する際立った対照として、それらの風景に自身の心を投影することから美が生 じている、というわけなのであろう。
 この曲が生まれることになった契機が私にとってのそうした風景であったと いうことを、お聴きになられてもしも実感して頂けるならば幸いである。


 Rhapsody


・於)'03年5/29東京オペラシティ・リサイタルホール
・チェロ:江口心一 ピアノ:浦壁信二


・木管五重奏曲 (1999年作曲)
 4楽章よりなるこの作品は、実は私にとって、「これまでで一番楽しんで作 ったなぁ」と思える作品なのである。
 ことによると、この曲が現代に生きる作曲家(=つまり私)の手による音楽 であるのに、全くもって旧弊な長調や短調,自然和音のシステムで作られてい ることを意外に感じる向きもあろうかと思うが、その事に対し、自分としては いささかのためらいもとまどいも無かった。
 なぜかと言えば、この曲もまた前述の「低回趣味」が色濃く表れている曲な のだが、そんな風に勝手気儘に人生のひとときを楽しむにあたっては、その流 儀に関して「新しい」も「古い」もないのではないか?・・といういわば信念 めいたものが私の中にあり、作曲の際に用いる語法や方式のスタイルの如何な どには一切頓着しないと決めてかかっているからに他ならない。
 結果なにがしかの感興が得られれば、それですべてを好しとするのである。


  木管五重奏曲:第一楽章


・於)'03年5/29東京オペラシティ・リサイタルホール
・フルート:高市紀子 オーボエ:青山聖樹 クラリネット:糸井裕美子
 ホルン:堂山敦史 ファゴット:石川 晃


ピアノ・ソナタ (2004年初演)
 この曲には、単に「ピアノ・ソナタ」という曲名を与えているが、実は、作曲の出発点にあって、或る種の標題性とも言うべきイメージが発想の拠り所となっていた。しかし、それがあまりに漠然としているために適切な標題として表すことが難しく、また一方で、曲の外形的な楽式上の枠組みはいかにも「ソナタ」であったために、無理には標題を与えないこととした次第なのである。
 さて、その漠然としたイメージであるが、一つの世界の生成や流転に決定的な契機をもたらす程に大きな力を持った目に見えぬ存在があり、それがある時ある世界に降臨し、しばしの滞在の間、それ自身の意図など全く無いうちに世界の大いなる動乱を生んだ後、何事も無かったように去っていってしまうが、その後その世界は、事物の一切の意味も価値も剥落し、無へと崩壊していく、というものである。
 第1楽章は伝統的なソナタ形式。第2楽章はスケルツォで、トリオ部分に緩徐楽章的な要素を持ち、大変短い間奏曲(たった一つの楽節からなる)を挿んで、第3楽章は8小節の主題によるシャコンヌと終結部,という全体構成になっている。


 ピアノ・ソナタ:第二楽章


・於)'04年7/21北とぴあ
・ピアノ:渚 智佳


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作品の試聴

(※演奏家の権利を配慮し、作品の一部抜粋としている場合があります。)